【河北直治さんのブログ】
【ミニミニ今日の横浜】1月24日
横浜の幕末明治を記録した資料に「横浜沿革誌(明治25年刊)」があり、時折史料として活用します。1877年(明治10年)の今日の記述に「京都へ海路行幸被為遊 當日午前九時二十分横浜停車場へ着御 元弁天東海鎮守府へ御休憩 十時三十分同海岸より小蒸気船に被為召高雄艦へ乗御 十一時御発艦 此時碇泊軍艦神奈川砲臺より祝砲を発す 清輝艦御先導を為し春日、東、孟春、千代田、鳳翔、浅間、摂津の七艦あわせて仏国軍艦一艘供奉す」とありました。内容は、明治天皇が船で京都行幸に出発するため列車で横浜に到着し<休憩>後発艦しましたというものです。
ここで取り上げるのはここに登場する「元弁天東海鎮守府」についてです。「元」となっているのは明治天皇が<元鎮守府>施設を使用したのではなく、この「横浜沿革誌」が書かれた明治25年時点では移転していたので「元」と表記されています。東海鎮守府は1876年(明治9年)横浜に仮設され8年後の1884年(明治17年)横須賀に移転した日本海軍の統轄機関です。この鎮守府、当初の計画では1875年(明治8年)に海軍が日本周辺を大きく東西2海面に分け指揮管理する組織編成をしたことに始まります。結果、東海鎮守府が横浜に<仮設置>され、西海鎮守府も計画していましたが設置されず東西の代わりに地域鎮守府が設置されることになります。この約8年横浜にあった東海鎮守府について紹介しましょ
う。
「東海鎮守府」の場所はどこにあったか?
資料によりますと「横浜北仲通6丁目旧ドイツ領事館跡」に設置されました。隣には灯台寮がありました。灯台寮(局)は元々洲干弁天の横にあった官舎跡に当時「灯台掛」用の木工場跡地に開設されたものです。また鎮守府の東側は、神奈川裁判所(横浜裁判所)が「元フランス公使館跡」に建ちます。「鎮守府」は約8年横浜に設置されていましたが、横須賀に組織が移った後は、一時期「弁天御用邸」として皇室関係の施設として利用されていたようです。現在の北仲エリアですが 灯台・鎮守・御用邸・本町小学校・商学校・万国橋などこのエリアのエピソードはかなりありそうですね。
暦で語る今日の横浜【9月28日】
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=55
No.24 1月24日 西へ新たなフロンティアへ
http://tadkawakita.sakura.ne.jp/db/?p=599
さらに、佐藤治さんが「みなとみらい線馬車道駅は元々「北仲駅」となる予定だったんですよ」と書き込んでくれ、私も「その計画段階から北仲通駅でなく北仲駅だったのだから、また改めて調べてみないと」と返したが、いつから「北仲」になったかも研究テーマだ。