ポトマック河畔に日米の架け橋として尾崎行雄東京市長から贈られた最初の2000本の桜は害虫で全滅し、ようやく2年後に3000本が届いて植樹できたのが1912年3月27日。この日を日本でも「さくらの日」に制定したほどよく知られた話だ。贈呈に協力し奔走したシドモア女史や高峰譲吉夫妻についても「さくら、さくら」(市川徹監督)で映画化されている。
1991年その功労者シドモアの眠る外国人墓地には里帰りした桜の苗木が植えられ、2006年には元町・谷戸橋のたもとにも接ぎ木により苗木を作って植えられている。(facebook未投稿)
【返礼に贈られたのがハナミズキ】
しかし桜植樹の3年後に返礼として届いたハナミズキ40本の苗木が敵国の花が理由で数奇の運命をたどったことはほとんど知られておらず、現在東京の小石川植物園の1本のほか3本しか原木と断定できていない。これはアメリカから12000体あまりの青い眼の人形が日本に贈られ、現存するのが300弱しかないのに対して、返礼に贈った日本人形58体はアメリカに39体が現存することと相似形をなしている。
【原木探しに5年かけた峰与志彦氏】
尾崎行雄の縁で返礼がハナミズキと知った故峰与志彦氏(サンリオの出身・津久井に窯を持って陶芸・彫刻活動を続け、尾崎行雄を全国に発信する会事務局長を歴任)はボランティアで原木探しを始めるが、敵国から贈られたハナミズキは兵士により切り倒されたり、大切にされなかったことを目のあたりにする。1938年ポトマック河畔にジェファーソン記念堂が建設される際、婦人団体の身を挺した行動で270本の桜の木が救われたのとは対照的であった。5年かかって原木と断定できる4本、原木ではないかと思われる8本にようやくたどり着き、植樹80周年にはワシントンでの桜祭りの開会式や大学、高校でのスピーチが感動を呼ぶことになる。(1997年5月NHKが報道)
写真は手島悠介著「友情の二つの花」(岩崎書店)から