facebook|Likes:107 Comments:40 Share:2
この投稿をした翌日の9日、衣紋坂とおぼしき場所に行ってみた。海岸通〜太田町の200mほどの幅で砂洲になっていたから、いまでも撮影した場所は1mくらい本町通より低くなっている。写真の右にみなと大通りの標識があって、ほぼその高さ分、手前の関内駅側が下がっている。しかしこれを坂と言うにはかなり無理がある。いかに江戸吉原を倣って洒落でつけたかも知れないが。
このfacebook投稿に歴史研究仲間の河北直治さんや金木伸浩さんがすぐ、「横浜本町并ニ港崎町細見全図」という港崎遊郭側の新田にグッと下っている錦絵を探してくれ、衣紋坂の字が読める「御開港横浜正景」も投稿してくれた。本当にfacebookは写真つきのコメントを使えてありがたい。ただ、「御開港横浜正景」で、後に横浜開港記念館になる町会所の場所がずれているように思うので、また新たな疑問が生まれてしまった。こういう謎解きは楽しいが、謎が謎を呼ぶものだ。
横浜本町并ニ港崎町細見全図(1860年) |
御開港横浜正景(1864年) |